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藤1枚目

女房装束「五衣長袴唐衣裳(いつつぎぬながはかまからぎぬも)」のことを、一般的に「十二単(じゅうにひとえ)」と呼びます。よく「本当に十二枚ですか?」と聞かれますが、時代により異なり、二十枚以上重ねた、などという記録も見えます。

「十二単」という単語が出てくる最も古い文章はこれです。

『源平盛衰記』
女院は後奉らじと、御焼石と御硯の箱とを左右の御袂に宿し入、御身を重くしてつゞきて海に入せ給ひけるを、渡辺源次兵衛尉番が子に、源五馬允眤と云者、急飛入て奉潜上けるを、眤が郎等熊手を下て御髪をから巻て御船へ引入奉。弥生の末の事なれば、藤重の十二単の御衣を召れたり。翡翠の御髪より始て、皆塩垂御座ぞ御痛しき。

壇ノ浦で入水する建礼門院の姿を「藤重の十二単」と表現しています。同じ情景を別の文献では、

『吾妻鏡』
二品禅尼持宝劔。按察局奉抱先帝。〔春秋八歳。〕共以没海底。建礼門院〔藤重御衣。〕入水御之処。渡部党源五馬允以熊手奉取之。

「藤重御衣」としていますね。いわゆる「十二単」というのは「偉い人の前に出るときの服装」です。中宮は帝の御前で十二単を着ますが、普段はもう少しラフな服装。中宮にお仕えする女房たちは中宮の前で十二単を着ました。それゆえ「女房装束」なのです。ですから、戦場で建礼門院が本式の「十二単」(女房装束)を着ているはずはありません。あくまでも「たくさん重ねた衣」程度の描写だと思われます。

さて、建礼門院が着ていた「藤重ね」の衣というのは、どういう色目だったのでしょうか。

『胡曹抄』(一條兼良・室町中期)
衣色事、(中略)藤、面薄紫裏青朽葉、三四月。
衣色異説、(中略)白藤、面うすむらさき裏濃紫。

『岷江入楚』(中院通勝・1598)
かざみは童女の上にきる物なり、水干のかみのやうなる物なり、あか色のうはぎに、桜がさねのかざみ、紅の藤がさねはみな衵なり、衵は二も三もかさぬるなり、藤がさねは、面うす紫、裏萌木といふなり。

古い文献を見て参りますと、「藤衣(ふじごろも)」という単語を散見いたします。しかしこれは「藤重ねの衣」のことではなく、藤蔓の粗末な繊維で作った衣、喪服を意味します。

『源氏物語』(橋姫)
母にはべりし人は、やがて病づきて、ほども経ず隠れはべりにしかば、いとど思うたまへしづみ、藤衣たち重ね、悲しきことを思うたまへしほどに……

まったく違う意味になりますので要注意。
画像は藤の花房と、『岷江入楚』の組み合わせ。表が薄紫で、裏が萌木色。なるほど納得の、藤そのものの風情ですね。

(有職故実研究家 八條忠基さん Facebook投稿より)