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秋の七草シリーズ

the seven flowers of autumn

秋の七草シリーズ1枚目

すっかり秋です。
「暑さ寒さも彼岸まで」を迎えますね。そこで、 秋の七草のお話しをいたしましょう。
「春の七草」は軽妙な歌で七種類覚えやすいですし、何しろ食べられます(笑)。しかし「秋の七草」は覚えにくいのは確か。
「お好きな服は?」で覚えましょう。

(有職故実研究家 八條忠基さん Facebook投稿より)

女郎花(おみなえし)

おみなえし

ではまず「お」から。
オミナエシ(女郎花、学名:Patrinia scabiosifolia)は、有職の世界では、非常に大切にされた植物で、文献上に数多く登場します。

『堤中納言物語』(はなだの女御)
右大臣殿の中の君は、『見れども飽かぬ女郎花』のけはひこそしたまひつれ。

秋空に映える女郎花は、見飽きない美しさとして、平安時代には「秋の七草」の中でも特に愛されました。基本的な色彩表現でも「女郎花色」があり、イエローに少しだけグリーンが入ったような色を指します。

『宇津保物語』(楼のうへ上)
大将、かんの殿の御前どもは、若やかなる女郎花色の下襲を着よとの給ふ。宮の御方のは、薄き二藍を着よとの給ふ。女房車ども、かんの殿の上臈三車は紅のうちあはせに、はじの織物、次々のは、朽葉、かうかさねいろのすりの大海の裳なり。宮の御方のは上臈四車には、紫苑色の袿に、赤色に二藍の唐衣、つぎつぎのは薄二藍、女郎花いろなどのを着て、青摺すみ摺のせみつの裳なり。童も同じく着せたり。夏のれうの上の袴着たり。

『餝抄』(中院通方・鎌倉前期)
薄黄色。
通方案。先年六條宮元服之時。袍色有御沙汰。薄女郎花色也。有黄気者。

現代では、男子がビジネスシーンでカラフルな衣類を着ることはあまり無いですが、公家社会では大いに好まれました。

『後深草天皇御記』
弘安元(1278)年七月十三日。摂政更褰寝殿簾。親王乗車。<二藍直衣、女郎花指貫、紅引倍支、白草衣、紅下袴、已上保延六(1140)年六月本仁親仁出家之時着用例也。但彼者二倍織物也。是者非二倍織物、依時儀也>。

親王の夏の直衣姿。「二藍」(青紫色)の直衣の袍に、女郎花色の「指貫(さしぬき)」(括り袴)。簡単な有職故実の知識ですと、指貫の色は「年齢により紫から縹」みたいな固定的な認識ですが、室町中期以前の文献を読めば、実に様々であったことが判ります。

五衣の「おみなえし重ね」(風俗博物館)

この「女郎花指貫」がどのようなものであったのか、具体的には判りませぬ。ただ、親王の指貫ということから、格の高い綾織物の指貫であったことが想像されます。そこで参考になるのが、室町時代の文献。

『物具装束抄』(花山院忠定・室町前期)
女郎花狩衣。面タテ青ヌキ黄。裏青。自六月至九月着之。

表地が「面タテ青ヌキ黄」。つまりタテ糸に青(グリーン)、ヨコ糸に黄を使って織る綾織物。見る角度によって黄色になったりグリーンに見えたりする、いわゆる「玉虫色」です。こういう経緯の糸の色を変えて作る色を「織り色」と呼びます。
有職生地には、白い反物を織って後から染める「後染め」と、糸を染めた後に織って反物を作る「先染め」があります。後染めの反物を「染め物」、先染めの反物を「織り物」と呼ぶ場合もあります。通常の単語の意味とは異なりますので、文献を読むときに要注意。利用頻度では後染めが圧倒的に多く、「面タテ青ヌキ黄」のような織り色は珍しいものでした。

薄(すすき)

赤花のススキ、『満佐須計装束抄』の「薄」重ね。

覚え方「お好きな服は?」で2番目の「す」は、ススキ(芒、薄、学名:Miscanthus sinensis)でございます。どうですか。「ススキって花なの?」と思われるでしょう。そして「ススキって地味ぃ~」と見られがちですが……

『満佐須計装束抄』(源雅亮・平安末期)
薄(すゝき)。
蘇芳の濃き薄き三。青き濃き薄き白単。
青キヲ上ニ重ネテ。ナカ□□アリテ。下ニ蘇芳単□□匂ヒテ。ヤガテ蘇芳単ト思ハ僻事ニヤ。

女房装束の重ね色目にも登場するススキは、赤い花穂を見れば「花」とわかりますね。平安時代は稲も赤穂が主流だったようですが、ススキも赤花がポピュラーであったのかも知れません。それならば、「秋の七草」に入ったことも納得できるのでは無いでしょうか。
昔から日本人はススキの風情を愛しました。その魅力は、いくつかのキーワードで分類できそうです。

『古今六帖』(和泉式部)
なよ竹に 枝さしかはす しのすすき
よませに見えむ 君は頼まじ

なかなか読み解くのが難しい歌です。これについての鎌倉時代の解説を見ますと……

『紫明抄』
播州か説にいはく荻に枝なしと云々、すゝきにえたあり、又夕かほに枝あり、あに朝顔に枝なからんや、

「オギに枝無し・ススキに枝有り」と書いてありますが、そうなんですかね。ともあれ、この歌でのススキは「ナヨナヨ頼りない」イメージ。

『とりかえばや物語』
御髪は丈に七八寸ばかりあまりたれば、花薄の穂に出たる秋のけしきをおぼえて、裾つきのなよなよとなびきかゝりつゝ

これも「なよなよ」ですね。次に実用的?なススキ。

『源氏物語』(藤裏葉)
前栽どもなど、小さき木どもなりしも、いとしげき蔭となり、一叢薄も心にまかせて乱れたりける、つくろはせたまふ。

『源氏物語』(柏木)
前栽に心入れてつくろひたまひしも、心にまかせて茂りあひ、 一叢薄も頼もしげに広ごりて、虫の音添へむ秋思ひやらるるより、いとものあはれに露けくて、分け入りたまふ。

ススキは河原に行けば勝手に幾らでも自生しているイメージですが、『源氏物語』の記述では、庭にわざわざ植えているみたいですね。これらの記述には元ネタがあるのです。

『古今和歌集』(三春有助)
君が植ゑし 一叢薄 虫の音
しげき野辺とも なりにけるかな

「君が植し」ですから、まさにわざわざ植えたわけです。「一叢」は「ひとむら」。ある程度まとめて植えたのですね。文章をそのまま解釈すると、鈴虫の住みかとして植えているようにも思えます。なんとなく納得です。


『源氏物語』(宿木)
枯れ枯れなる前栽の中に、尾花の、ものよりことにて手をさし出で招くがをかしく見ゆるに、まだ穂に出でさしたるも、露を貫きとむる玉の緒、はかなげにうちなびきたるなど、例のことなれど、夕風なほあはれなるころなりかし。
穂に出でぬ もの思ふらし篠薄
招く袂の 露しげくして

『堤中納言物語』(はなだの女御)
「さて、斎宮をば、何とか定め聞え給ふ。」
と言へば、小命婦の君、
「をかしきは皆取られ奉りぬれば、さむばれ、『軒端の山菅』に聞えむ。まことや、まろが見奉る帥の宮のうへをば、芭蕉葉ばせをばときこえむ。」
よめの君、
「中務の宮のうへをば、『まねく尾花』と聞えむ。」


どうやら、赤い花が咲いている状態を「薄(すすき)」、白い穂になっている状態を「尾花(おばな)」と使い分けているみたいですね。確かにススキの穂は馬の尾に似ています。その尾花は、あたかも手で招いているようにも見えますから、「招く」というキーワードで表される描写です。
どうでしょう。
「頼りなく・なびく・招く」
平安の男子から見て、なかなかに魅力的な風情なのではないでしょうか。武蔵野のススキ描写は荒涼とした風情の象徴でした。『昭和枯れすすき』的世界(笑)。しかし平安の情緒は、それだけをススキに見たわけではないのですね。そうでなければススキの重ね色目なんて考えませんでしょう。

桔梗(ききょう)

広隆寺のキキョウと、「桔梗」重ね。

覚え方「お好きな服は?」の3番目、「き」はキキョウ(桔梗、学名:Platycodon grandiflorus)でございます。『万葉集』で「朝皃之花」(朝顔の花)とされている花は、キキョウだとする説が一般的です。

現在でいうところのアサガオは漢方薬として輸入されたもの。種子が猛烈な下剤なのです。いつ日本に来たのかは諸説ありますが、奈良時代のアサガオが桔梗であったところに、現在のアサガオが平安時代に輸入され、桔梗はキキョウとして区別されるようになった、とも言われます。

『和名類聚抄』(源順・平安中期)
桔梗 本草云桔梗<結鯁二音。和名、阿里乃比布木>。

「キキョウ」は、桔梗の中国発音(呉音)である「ケチキョウ」から来たもので、和名は「アリノヒフキ」。この由来には諸説有りますが、花びらにアリがたかりますと、蟻酸で花が赤くなるので「蟻の火吹き」だとする説が有力です。
平安時代には勿論、その色彩が愛されて重ね色目になっています。

『物具装束鈔』(花山院忠定・室町後期)
桔梗狩衣。面二藍、裏青。五六月着之。

いかにも桔梗そのものの風情を表現した色彩ですが、「五六月着之」とあって、夏でもやや早い時期に着る色、とされていますね。

『栄花物語』(おむがく)
衣の褄などのうち出し渡したる見るに、目耀きて何とも見別き難く、そが中にも、紅・撫子などの引倍木どもの耀き渡れるに、桔梗・女郎花・萩・朽葉・草の香などの織物・薄物に……

これは治安二(1022)年七月十四日の法成寺金堂・落慶供養での光景。ここでは秋の草と並んでいますから、まさに秋の色ということになります。
桔梗について、また別の話題を。

男子で最も格の高い「束帯」装束のとき、「袍(ほう)」(上着)の下に、「下襲(したがさね)」というものを着ます。

『満佐須計装束抄』(源雅亮・平安末期)
夏は上達部赤色の下襲。殿上人二藍。(原文仮名書き)

とあるように、夏の場合、三位以上の高位の公卿は赤色で菱文様ですが、四位以下は二藍(薄紫)で無文がルールでした。しかし何事にも例外は多々あります。

『助無智秘抄』(作者未詳・平安末期)
六七月ヨリアツキニハ。(中略)桔梗下重トテ。公卿モ殿上人ノヤウニフタアヰナル無文ノ下重ヲ着事アルベシ。

とあります。公卿が四位以下の下襲を「これは桔梗の下襲だぜ~」と称して着ることがあったのですね。やはり夏は赤色より二藍のほうが涼しく見えますからね!
ひとつのルールだけの知識を以て、異なる表現を「それは違う!」と強く言ってはいけない、ということが、この例からも判りますね。「有職故実は勉強すればするほど謙虚になる」と申し上げたいのは、こういうことです。

撫子(なでしこ)

撫子文様

覚え方「お好きな服は?」の4番目「な」。ナデシコです。
秋の花とは言え、かなり長期間咲いているので、別名「常夏」。日本原産のカワラナデシコ(学名:Dianthus superbus L. var. longicalycinus)は、別名「大和撫子」です。そのたおやかな風情は実に素晴らしいものです。

撫子の風情を愛したのは平安時代とて同じ事。

『枕草子』
草の花はなでしこ 唐のはさらなり やまともめでたし

清少納言は、風情ある大和撫子より、ゴージャスな石竹(セキチク・中国原産)のほうがお好みだったようですね。

『和泉式部日記』
ひるつかた御ふみあり。みれば、
あな恋し いまもみてしが 山がつの
かきほにさける やまとなでしこ

唐撫子に対して「山がつ」(ひなびた田舎)の大和撫子の楚々とした風情が、また愛されました。『源氏物語』(常夏)で、この花が語られるのも、玉鬘の「山がつ」育ちとも、関係なくはございますまい。

『源氏物語』(帚木)において、「常夏の女」として名前をあげられるのが「夕顔」さん。遭ってすぐ亡くなってしまう美人薄命の彼女を、儚くもしぼんでしまう夕顔の花に喩えたわけです。その「儚さ」と、「情熱・肉食」系(笑)イメージの「常夏の女」は一致しにくいのですが、実は「常夏」というのは撫子のことなのです。初夏から初冬までと開花時期が長いため、そう呼ばれたということです。

「山がつの 垣ほ荒るとも折々に
あはれはかけよ 撫子の露」(夕顔)

「咲混じる 色はいづれと分かねども
なほ常夏に しくものぞなき」(頭中将)

ここで言う「撫子」は頭中将と夕顔との間に生まれた娘のこと。後の「玉鬘」です。娘を可愛がってくださいね、という夕顔の願いと、いや、貴女ほどの女性はいない、という空気が読めない頭中将の返しです。
この話しの延長として、その名も「常夏」の帖で、再び撫子が出てきます。

「御前に、乱れがはしき前栽なども植ゑさせたまはず、撫子の色をととのへたる、唐の、大和の、籬いとなつかしく結ひなして、咲き乱れたる夕ばえ、いみじく見ゆ。」

「撫子の とこなつかしき色を見ば
もとの垣根を 人はたづねむ」(源氏)

「山がつの 垣ほに生ひし撫子の
もとの根ざしを 誰れか尋ねむ」(玉鬘)

これらを見て判ることは、撫子は「山がつ(山賤)」の野辺に咲く雑草の扱いであり、そこにもまた風情がある、とされたわけです。大輪の薔薇や牡丹の花よりも、道端で健気に楚々と咲く撫子の風情。これがいかにも、日本男性にはグッと来るものがあるんですね~。わかります。

和宮さまの袿(西陣の織元さんより)

そういったわけで、特に女性の装束では撫子モチーフのものが多用されました。幕末、将軍家茂に嫁がれた和宮親子内親王の着用された装束に見られるのも撫子文様です。可憐な撫子の装束を京で誂えて、心ならずも東に下った彼女の胸中や如何に…。
けれども、本人の意に沿わぬ結婚であったにもかかわらず、彼女は夫家茂と仲睦まじく、明治維新の動乱期には徳川家存立のために非常に尽力し、亡くなったときには遺言により、家茂の側に葬られています。いや、まさに大和撫子。
和宮と婚約していたのに、婚約解消を余儀なくされた有栖川宮熾仁親王は、徳川を攻める「東征大総督」に自ら志願して就任。これは恭順を条件として、徳川家を守るためであった、という説もあります。その親王は園芸好きで、維新前には、特に好んで撫子の栽培をしていたそうです。それもまた、因縁めいたお話し、と言えるでしょうか……。

藤袴(ふじばかま)

『胡曹抄』の藤袴重ね。

覚え方「お好きな服は?」の5番目。フジバカマ(藤袴、学名:Eupatorium japonicum)です。秋の七草の中で、最も目にする機会が少ないのがフジバカマ。今や絶滅危惧種です。園芸店で見かける、茎に赤みが差すようなものは、実は本当のフジバカマではなく、ヒヨドリバナなどとの交雑種だそうです。

『源氏物語』(藤袴)
かかるついでにとや思ひ寄りけむ、蘭の花のいとおもしろきを持たまへりけるを、御簾のつまよりさし入れて、『これも御覧ずべきゆゑはありけり』とて、とみにも許さで持たまへれば、うつたへに思ひ寄らで取りたまふ御袖を、引き動かしたり。
同じ野の 露にやつるる藤袴
あはれはかけよ かことばかりも
『道の果てなる』とかや、いと心づきなくうたてなりぬれど、見知らぬさまに、やをら引き入りて、
尋ぬるに はるけき野辺の露ならば
薄紫や かことならまし
かやうにて聞こゆるより、深きゆゑはいかが……

『源氏物語』のこのシーンについて室町時代の解説では、

『河海抄』(四辻善成・室町初期)
「玉鬘与夕霧共に祖母の服にやつれたる心也」

喪服のことを「藤衣」(藤蔓の繊維で織った素朴な衣類を表す)とも申しますが、「藤」つながりということで、フジバカマが登場しております。ところで、「蘭の花のいとおもしろき」とありますが、この「蘭の花」がフジバカマなのです。

『源氏物語』(匂宮)
御前の花の木も、はかなく袖触れたまふ梅の香は、春雨の雫にも濡れ、身にしむる人多く、秋の野に主なき藤袴も、もとの薫りは隠れて、なつかしき追風、ことに折なしからなむまさりける。

フジバカマの葉には、サクラの葉と同じようにクマリンという成分が含まれており、乾燥させると「桜餅の匂い」がします。良い香りの植物と言うことで、古代中国ではフジバカマを「蘭草」と呼んだのです。

『大戴礼記』(戴徳・前漢)
(五月五日)是日採蘭以水煮之為沐浴、令人辟除刀兵攘却悪鬼、

フジバカマを入浴剤にして沐浴すると、魔除けになるというのです。

『宋書』
釁浴、謂以香薫草薬沐浴也。、韓詩曰、鄭国之俗、三月上巳、釁両水之上、招魂続魄、秉蘭草払不祥、此則其来甚久、非起郭虞之遺風。

やはり魔除け。また口臭予防にも用いられ、帝の前に出るときには蘭草を口に含んだ、とも言われています。漢方でも用いられています。

東京で唯一自然の「本当の」フジバカマが群生している水元公園にて。花の色は白に近いです。

『本草神農経』
蘭草 主利水道、殺蠱毒、辟不祥。久服益気、軽身、不老、通神明。一名水香。生池沢。

こうして古くから親しまれた藤袴なのですが、不思議なことに重ね色目の「藤袴」や、有職文様にはほとんど登場しません。なぜでしょうね。唯一見られるのが

『胡曹抄』(一條兼良・室町中期)
衣色異説少々注之(中略)八月 藤袴<表紫裏同>。

と、表も裏も紫の重ね。室町時代の藤袴は、こんなに濃い色だったのでしょうか??

葛(くず)

覚え方「お好きな服は?」の6番目、「く」は、クズ(学名:Pueraria lobata )です。マメ科のツル性植物。赤紫色の、フジを逆さまにしたような美しい花を咲かせます。

この植物は雑草として厄介者扱いされることが多いのですが、いえいえどうして非常に有用な植物です。根からでんぷん質「葛粉」が得られ、葛切りや葛餅などとして食用されます。また風邪薬として有名な「葛根湯」の原料になります。そして以前もお話ししたように、ツル繊維の芯をほぐして繊維にし、「葛布」と呼ばれる強靱な生地を作り出します。蹴鞠の袴「葛袴」は、この生地で仕立てたスポーツ向けの袴です。また活動的な子供服や、牛飼童にも用いられたようです。

『玉葉』(九條兼実)
元暦二(1185)年五月三日。内大臣息侍従公継来。著水干装束。浮線綾白水干。繍龍紺葛袴。紫衣。生年十一歳。容顏美麗。進退叶度。

『物具装束抄』(中山忠定・室町時代)
牛飼事。装束之様大略同車副。但不着白張也。遣手之外水干葛袴。或着直垂。

そうした実用的繊維製品としての記述は文献に散見できるのですが、秋の七草にも歌われた花については、ほとんど鑑賞の対象になっていないようなのが不思議。重ね色目にも「葛重ね」はありませんし、やはりチープなものとして、上流社会では敬遠の対象だったのでしょうか。

『源氏物語』(夕顔)
切懸だつ物に、いと青やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉開けたる。

やや、「葛」があります……と申し上げたいのですが、これは「かずら」で、ツルのこと。白き花で判るとおり、これはユウガオのツルを意味しているのです。文献を読むときにはこういうところに注意しなければなりませぬ。

『とはずがたり』(後深草院二条・鎌倉中期)
練薄物の生絹の衣に、薄に葛を青き糸にて縫物にしたるに、赤色の唐衣を着たりしに、きと御覧じおこせて、『今宵はいかに。御出でか』と仰せ言あり。何と申すべき言の葉なくて候ふに、『来る山人のたよりには、訪れんとにや。青葛こそうれしくもなけれ』とばかり御口ずさみつつ、女院の御方へなりぬるにや、立たせおはしましぬるは、いかでか御恨めしくも思ひ参らせざらん。

ようやく見つけました。
これは「薄(すすき)」とセットですから、クズに間違いないでしょう。でも「青葛」などと言っていますから、赤紫の花についてのお話しではないようです。

今も昔も、有用で美しいのに何かと邪険に扱われる葛が可哀相でなりませぬ。名前も「くず」なんて……。このクズ、どういう語源かと言えば、「国栖舞」でおなじみの奈良県吉野の地名「国栖(くず)」から来ています。つまり国栖が主産地だったわけ。現代でも吉野葛は有名ですね。

萩(はぎ)

『雁衣鈔』の萩重ね。

覚え方「お好きな服は?」のラスト「は」は、「ハギ」(萩、学名:Lespedeza)でございます。「萩」という文字は日本で創作された国字で、草冠に秋、まさに秋を代表する植物と言えましょう。
萩は『万葉集』に登場する植物の中では最も多い142首。次いで梅、松などと続きます。「萩」は「鹿」と「露」がらみで詠まれることが多いようです。奈良時代には「鹿は萩を妻とする」と語られていました。
どこまで本当か判らないのですが、萩の花は、その形状から女性器を意味し、鹿は角からして男性器の例えである、という説がございます。『万葉集』では萩に「芽子」の字を宛てたものが多いのですが、これも深読みしますとねぇ(苦笑)。……そういった色眼鏡?で見ますと、萩の歌は何となくエロティックなものに読めてしまうから不思議です。

さを鹿の 心相思ふ秋萩の
しぐれのふるに 散らくし惜しも
(柿本人麻呂)

さを鹿の 萩に貫き置ける 露の白玉
あふさわに 誰れの人かも 手に巻かむちふ
(藤原朝臣八束)

我が岡に さを鹿来鳴く初萩の
花妻とひに 来鳴くさを鹿
(大伴旅人)

さを鹿の 朝立つ野辺の秋萩に
玉と見るまで 置ける白露
(大伴家持)

う~ん、なんとも赤面する内容に読めてしまいます。その読解(曲解?)が当たっているのかどうなのかは、柿本先生本人に聞かなければなりませんが、動物の鹿が植物の萩を妻とする、なんていうのは自然界では無理があるので、何らかの寓意が入っていると考えるべきだと思います。

『万葉集』の時代は、人情が素朴で大らかで、開けっぴろげなところが多々ありましたから、そういう意味で萩の歌が多かったとも考えられます。時代が流れますと、そういう詠み方をする歌が減ったのは事実で、萩の衰退?も、そんなところに原因があるのかもしれませぬ。……とはいえ鎌倉時代、

『秋篠月清集』(藤原良経・1205年頃)
さを鹿の 啼きそめしより宮城野の
萩の下露 おかぬ日ぞなき

な~んていう古風な歌もありますから、「萩」+「鹿」+「露」のイメージは相変わらずだったのですね。なにかこの歌、かなりエロいです(笑)。
…えっへん。
ちょいと話題が低きに流れましたので軌道修正。平安以降の色彩表現に萩はよく登場いたします。

『紫式部日記』
「八月二十六日(中略)上より下るる道に、弁の宰相の君の戸口をさし覗きたれば、昼寝したまへるほどなりけり。萩、紫苑、色々の衣に、濃きが打ち目、心ことなるを上に着て、顏は引き入れて、硯の筥に枕して臥したまへる額つき、いとらうたげになまめかし。」

この「萩」色がどのような色彩であったのかは明確ではありませんが、紫苑や濃色(こきいろ)と合わせてパープル系の上品な取り合わせの衣を引きかけて、「弁宰相の君」はお昼寝をしていたわけです。「絵に描きたるものの姫君」に見えたのも、わかるような気がいたします。

男性用の狩衣にも、萩重ねは登場。

『雁衣鈔』(鎌倉中期)
萩。面薄色、裏青。或云。面蘇芳、裏萌木。廿許ニテ着之。

『布衣記』(齋藤助成・1295年)
狩衣事(中略)面紫裏白をば萩花色と申也。

『物具装束抄』(中山忠定・室町中期)
狩衣。面薄紫、裏青。自六月至八九月着之。

表が赤紫系、裏がグリーン系。いかにも萩ですね。「萩花色」は表が紫裏が白。これまたぴったり。

最後なのでおまけ付き。
室町末期の後奈良天皇のナゾナゾ集『後奈良院御撰何曽』より。
「露霜をきて萩のはぞ散。」
な~んだ。
答えは秋に相応しいものでございます。
今回は出だしがお下品でしたので、なんだかドタバタしてしまいました(笑)。