大正4年(1915)に行われた大嘗祭に際して調製された草履で、宮内庁宮内公文書館蔵の大正大礼記録にも二階棚に置かれた同様の草履の写真が残されています。
天皇御料の草履としては御召緒太が知られており、京都大原の寂光院や大阪天王寺区の銀山寺など御下賜になった草履が各地に残されていますが本資料の御草履の形状とは異なります。
御召緒太については戦前の有職故実研究者として知られる江馬 務氏が、その形状から元々は奈良時代の麻鞋や草鞋の甲の部分が簡略化されて爪先を見せるようになり、平安末期に鼻緒が付き、その緒が太い為に緒太の名が起こり、天皇の御召になる緒太草履が、《おめしおぶと》から《おめぶと》に変化したと記しています。
平安時代後期の故実書である『江家次第』の六月解斎の條に
「南立二白木二階机一脚一、其上層敷二調布一其上居二御巾一、(入二黒葛筥一)又置二粉一杯一、(入二小土器一)下層置二藺履一足一(無二裏皮一、近代以二藁尻切一置レ之)」
とあり大正大礼の写真同様の配置を知ることが出来ますが、元は藺草で編んだ裏に皮の無かった履物が、この時代には裏に皮を貼った藁の尻切草履に改められていたことがわかります。
この御召緒太は近世には専ら奈良県の旧家から献納されており、昭和初期にまとめられた『御召緒太緣記』には同家と御召緒太との関わりについて
「人皇四十八代稱徳天皇天平神護元年我祖河陽ヨリノ歸路大和國平群郡十三峠ヲ過グ時夜初更又人息ナシ忽チニシテ哭聲ノ甚ダ哀シキヲ聞キ怪ミ之ヲ尋ネテ一貴女子ノ悲泣スルヲ見ル可憐ノ情黙止シ難クシテ連レ歸リ保養スル半ヶ年餘一日從容ト其姓氏ヲ問ヒ始メテ帝ノ高胤ナルヲ知リ大井ニ愕キ俄ニ別莊ニ御安置申シ急ニ之ヲ朝廷ニ奏ス事叡聞ニ達シ速時姫宮ヲ別宮ニ奉ズ即チ第三皇女ニマシマシケリ
於是乎我祖ノ功ヲ嘉シ給ヒ御召緒太草履ヲ奉獻スルヲ命ゼラレ我家ノ姓ヲ〇〇ト賜リ帯刀ヲ許サレ十三石ノ扶持御用ノ繪符ト提灯ヲ御下賜相成爾来毎年春秋ノ両度御用命ヲ拝シ云々」
と記しています。
御召緒太の事は近世の文献には見えませんが、同家の記録には天皇が御召緒太を使用される時は内々に殿上で用いられたらしく、正月の小朝拝や新嘗祭の他、臨時の儀式では即位式(大嘗祭)で用いられたとあります。
この御召緒太は定められた地域の稲草を以て作られ、その稲草を鶴穂と言い形状は亀の形に仕上げて鶴亀の名を付け、天皇の御長寿萬歳を祝して献納されました。
しかし明治維新を迎え旧習一掃の風潮から明治3年(1870)3月15日を最後として宮中への献納は無くなり、その後も再三献納を願い出ましたが明治8年(1875)6月2日に却下となります。
大正4年に大正天皇の大嘗祭が京都において行われますが、大嘗宮の御用材が江戸時代同様に特定の地域から伐採されるなど旧来の慣例が守られたなか、御召緒太ではなく本資料の御草履が装束店により新たに調製されました。
しかし大正12年(1923)に従来の旧家から御召緒太を大正天皇に献上したところ、宮内省より〝御召緒太草履ヲ獻上シタル奇特ノ趣ヲ以テ〟書状と金参百圓が下賜され、その後旧家では「最早 皇室ニ於カセラレテハ御不用ニ付學校方面ヘ教育秘蔵用トシテ名稱ヲ鶴龜緒太草履ト改メ(御召緒太緣記)」て販売したい旨宮内省に届け出たところ差支え無しとの通知がありました。



