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黒木賊くろとくさ

黒木賊1枚目

敬老の日。
秋の連休を増やすための方策で、9月第三月曜日となりましたが、以前は9月15日でした。しかしこの日付は実に根拠がいい加減なもので、昭和22年に兵庫県の、とある村で始まった「としよりの日」が発祥。農閑期で日和も良い9月半ばが選ばれた、というのに過ぎません。後になって様々な日付根拠が故事付けられましたが、さすがに発祥に関係する当事者が現存していますから、コジツケが一人歩きすることは今のところ無いようです。

むかしの「としよりの日」は、「尚歯会(しょうしかい)」というものが、それにあたるでしょうか。「尚歯」というのは、齢を尊ぶ、という意味です。

『扶桑略記』(貞観十九(877)年)
参月、大納言南淵朝臣年名、設尚歯会。

於小野山荘置宴、(中略)命酒賦詩、名為尚歯会。刑部卿菅原朝臣是善為之都序云。大唐会昌五年、刑部尚書白楽天、於履道坊〓宅、招廬胡六叟宴集、名為七叟尚歯会。

中国の白楽天が、会昌五(845)年に開催した「七叟尚歯会」という詩賦の遊宴を真似した、ということですね。白楽天(白居易)なんていうと、漢文の教科書の中の、遠い昔の人、というイメージしかありませんが、貞観十九年ベースですと、わずか32年前。そうそう昔の出来事でもなかったわけですね。この会が長寿を願うものであったかは定かではありませんが、尚歯会開催の翌月、南淵年名は亡くなっています。以て瞑すべし、といったところでしょうか。

『日本紀略』(安和二(969)年3月)
十三日庚寅、大納言在衡卿於粟田山庄、有尚歯会。七叟各脱朝衣、著直衣指貫。希代之勝事也。

これが藤原在衡による第2回開催。束帯を脱いで直衣(のうし)と指貫(さしぬき)の姿。こういう記述が装束研究には有り難いのです。

『今鏡』(ふじなみの下・第6)
才学おはして尚歯会とて、年老いたる時の詩つくりの七人集まりて、文作ることおこなひ給ひき。唐国にては、白楽天ぞ序書きたまひて、おこなひ給ひけり。(中略)年の老ひたるを、上臈にて庭に居並びて、詩つくりなど遊ぶ事にぞはべるなる。

これは天承元(1131)年3月、藤原宗忠による、我が国第3回目の尚歯会のことを述べたもの。宗忠は開催の10年後に、79歳の天寿を全うしています。効き目?があったようですね(笑)。

長寿と言えば、どこまで信じて良いのかわかりませんが、江戸時代の渡辺幸庵(1582-1711)が、何と127歳のときに尚歯会に出席しています(『嬉遊笑覧』)。
あの泉重千代さんも、生年不明確でギネスブックから認定が取り消されているくらいですから、記録あいまいな戦国時代生まれの127歳はどうかなぁと思います。しかし以前もお話ししましたように、昔の人にも長寿はいたのです。

今日は敬老の日なのでお話しを進めますと、史上有名な長寿の人は「北山准后」藤原貞子(1196-1302)で、107歳。これは間違いのない数字です。彼女の祖母は、平清盛の娘、建礼門院徳子の妹でした。つまり貞子は平清盛の曾孫。彼女は、激動の鎌倉時代をまるまる生きた、と言って良いでしょう。後深草天皇の祖母ですから、今の皇統につながる人物の一人です。
『増鏡』(中)に、貞子90歳のお祝い会のことが詳細に記されています。

今年、北山の准后、九十に満ち給へば、御賀の事、大宮院思しいそぐ。世の大事にて、天の下かしがましく響きあひたり。かく罵るは、安元の御賀に青海波舞ひたりし隆房の大納言の孫なめり。鷲の尾の大納言隆衡の娘ぞかし。大宮院・東二条院の御母なれば、両院の御祖母、太政大臣の北の方にて、天の下皆此の匂ならぬ人は無し。いとやむごとなかりける御幸なり。

北山准后(きたやまのじゅごう)の「北山」は住んでいた地名によりますが、この西園寺家の北山山荘を召し上げたのが、足利義満です。つまり金閣寺ですね。そういう意味からすれば、金閣寺は長寿祈願に最適?…なのでしょうかねぇ。
それにしても、今年日本の100歳以上のお年寄りは、なんと5万人を超えたそうです。それはもちろん慶賀の至りではありますが、敬老の「敬」が希少価値の尊重という意味も持っているのであれば、自ずと扱いが異なってくるのも、また仕方がないものと考えております。

今日の重色目は「黒木賊」。
表が「黒みのある青」で、裏が白。裏白の狩衣は高齢者のシンボルです。

(有職故実研究家 八條忠基さん Facebook投稿より)