臺灣たいわん神宮じんぐうとばり裂地

台湾神宮はかつて台湾台北市郊外の剣潭山けんたんやまの山麓に存在した神社で、旧称は台湾神社と呼ばれていました。

日清戦争の結果、台湾は明治28年(1895)4月17日から終戦の昭和20年(1945)10月25日まで日本の統治下にあり、その台湾の近衛このえ師団長として北白川宮きたしらかわのみやよしひさ親王が出征されましたが明治28年(1895)10月28日にマラリアに罹り現地で亡くなります。

翌年、貴族院に於いて能久親王を祭神とする神社の建設が発議され明治32年(1899)2月より土木工事に着手、33年(1900)4月1日には地鎮祭が行われ、34年(1901)10月20日に山の稜線部分を三段に造成して、神明造しんめいづくりの本殿と祝詞のりと殿でんを上段に、拝殿を中段に、下段の東西に社務所や手水舎を配した社殿が竣工しました。

この間、明治33年(1900)9月18日に内務省より祭神を開拓かいたく三神さんしん(大國おおくにたまのみこと大己おおなむちのみこと少彦名すくなひこなのみこと)と能久親王とする「官幣大社臺灣神社」の創建が認められ、翌34年(1901)10月27日に宮中から勅使が遣わされ鎮座祭が行われました。その後、昭和10年(1935)頃より社殿の改修と神域の拡張が協議され始め、昭和15年(1940)の皇紀2600年の記念事業として遷座を含めた新社殿の造営とあまてらす大神おおみかみ増祀ぞうしが計画されました。

昭和19年(1944)6月18日、天照大神の増祀と台湾神宮への改称が官報により告示されましたが、いまだ新たな社殿が造営中であったため祭典に必要な部分のみ完成させることとし、10月22日には勅使としてしょうてん飛鳥あすかまさのぶが参向しました。しかし23日新たに造営された台湾神宮のある圓山まるやまに旅客機が墜落し新社殿の一部が焼失したために増祀祭・遷座祭は旧社殿にて行われ、さらに昭和20年(1945)5月6日未明に米軍機の爆撃を受け拝殿が炎上、本殿は無事であったものの8月15日には終戦を迎えます。

終戦後、台湾は中華民国の占領下に入り台湾神宮の新旧社殿は取り壊され、旧社殿跡地にはホテル「圓山大飯店」が、新社殿跡地には会員制クラブ「圓山まるやまれんかい」が建てられます。
新たに造営された台湾神宮でしたが、遷座されることも全ての社殿が完成することもなく取り壊された〝幻の神宮〟となりました。

資料の五点の裂地にはそれぞれ「臺灣神宮内陣ないじん幌」・「臺灣神宮中陣ちゅうじん幌」・「臺灣神宮外陣げじん幌」・「臺灣神宮摂社せっしゃ内陣幌」・「臺灣神宮摂社外陣幌」と下札が付けられています。

幌は帳・戸張とも書き、社殿の入り口や室内の間仕切りに用いられるカーテン状の布帛で、これらの幌が神宮号に改称になった新社殿の幌として新調され、本殿の内部が内陣・中陣・外陣の三つに分けられ、また創建当時は存在しなかった摂社が存在したことがわかります。

内陣の幌に摺られている菊花紋中心部の三角を上下重ねた模様は「台字章」と呼ばれる台湾の「台」の字を表わした紋章で、台湾総督府の紋章にも用いられていました。

(風俗博物館所蔵)
官幣大社臺灣神社鳥居正面(パブリック・ドメイン)
台湾神宮(吉田初太郎画、パブリック・ドメイン)