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孝明天皇の賀茂社行幸とその絵巻

孝明天皇の賀茂社行幸とその絵巻1枚目

第121代の孝明天皇は、天保二年(1831)、仁孝天皇と典侍ないしのすけ(女官) 正親町おおぎまち雅子の間に誕生された。
弘化三年(1846)父帝の崩御により、数え一六歳で皇位を継ぎ、慶応二年(1867)十二月、三七歳で崩御されるまで、内患外憂の迫る幕末の日本において、重要な役割を果たされた。

『京都の御大礼ー即位礼・大嘗祭と宮廷文化のみやびー』所功より

幕末の日本における孝明天皇の重要な役割

それは即位早々の弘化三年八月、幕府に対して「海防を厳しくすべし」と要請する勅書を出されたことから始まる。ついで翌四年四月、石清水八幡宮に勅使を遣わして「攘夷」を祈願され、さらに三年後の嘉永三年(1850)京都近辺の主要な七社・七寺などへ再三にわたり勅使を遣わして、攘夷を祈願された。
のみならず、ペリーが再来した安政元年(1854)の十二月には、寺々の鐘を毀して大砲を鋳造するように、との太政官符まで出さしめておられる。

宮田糺泉 孝明天皇賀茂行幸絵巻(部分)
宮田糺泉 孝明天皇賀茂行幸絵巻(部分)昭和9年(賀茂御祖神社)上:天皇の鳳輦、下:随従する将軍

つまり、徹底した攘夷論者であるが、必ずしも頑迷な鎖国論者ではない。近海に迫る欧米列強「異国
船」の脅威に対抗するには、朝廷と幕府が一丸となり、絶対に屈服しない強固な決意が不可欠と考えられたのであろう。

そのため、一方で文久二年(1862)二月には、妹の皇女和宮かずのみやが将軍徳川家茂いえもち(共に17歳)に降嫁することを認めて「公武合体」の実を示すと共に、他方で翌三年三月、上洛した将軍家茂らを従えて、京都を代表する賀茂御祖(下鴨)神社と賀茂別雷(上賀茂)神社へ行幸し、自ら攘夷を祈願しておられる。

ちなみに、江戸時代の天皇は、後水尾天皇を最後に、内裏(御所)の外へ出られない(幕府が認めない)という状況にあった。そんな抑圧が代々続いてきたにも拘らず、孝明天皇は237年ぶりに敢えて賀茂両社への行幸を決行されたのである。

孝明天皇賀茂行幸

その時、天皇は社頭まで進んで拝礼され、「仰ぎ願はくば、国人帰一して忠に誠の心を尽し、早く攘夷の成功を遂げしめ、皇州の神威を四海の外に表し、永く夷賊等の覬覦きゆの念を絶ん」との祭文を捧げられる。その大行列について見聞きした京都の馬場文英は、翌年(元治元年)に著した『元治夢物語』の中で、「御鳳輦ほうれんの前後」に「数百人付き随ふ」「御道筋には武家、麻の裃を著し」「近国近江より聞き伝へて行幸を拝せんと、都鄙の貴賤老若男女、賀茂川に群参し、道路に伏し奉拝落涙を催し、拍手を打て拝見せり」とリアルに記している。

森安石象 孝明天皇賀茂行幸絵巻(部分)
森安石象 孝明天皇賀茂行幸絵巻(部分)昭和3年(賀茂別雷神社) 上:鳳輦、中:渡橋、下:境内

しかも、それをいろいろな形で絵図にしたものがある。そのひとつは、直後に山本桃谷(駒井孝礼の門人)の描いた「孝明天皇賀茂御祖神社参拝行幸之図」である。それを元治元年(1864)下鴨社の神工桜井直弘が、長大な絵馬に制作して、木材商の近江屋江崎権兵衛らにより奉納されたものが、今なお境内の三井神社回廊に掛けられている。また、それを昭和九年(1934)社家出身の宮田糺泉が書写した絵巻もある。

一方、上賀茂神社には、明治に入ってから社家出身の賀茂真直=星野蟬水(1834~1902)の描いた「孝明天皇賀茂行幸絵巻」を、昭和三年(1928)森安石象の転写したものがある。またその中心部分(鳳輦など)を写した長大な絵馬が、近江屋の当主により奉納された。それを平成二十五年(2013)複製した新品が、楼門内の高倉殿に掲げられている。

さらに、京都産業大学図書館所蔵の「孝明天皇賀茂両社行幸図巻」は、文久三年(1863)海北友樵(海北友松の末裔)筆の彩色絵巻である。
他にも、京都国立博物館には、塩川文麟(1808~1877)等の描いた「賀茂行幸図屛風」が伝存する。それのみならず、冊子本・一枚刷の絵図なども多様に作られ、江戸にも全国各地にも広まった。
総じて、その行幸を直接奉拝した人々だけでなく、各地で絵図などを見た人々も、天皇(みかど)こそが危機の日本で先頭に立つ最高の権威者であり、強大な権力を持つ将軍といえども、天皇から大政を委任された実務担当者の立場にあるという上下の秩序を、はっきり認識することが出来たに違いない。
それが勤皇佐幕から尊皇倒幕への流れを一挙に加速させる要因になったとすれば、行幸の意義はまことに大きい。