飛鳥時代は、日本の歴史の時代区分の一つである。崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す。草創期は古墳時代の終末期と重なる。
狭義には、推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。
この時代に倭国(倭)から日本へ国号を変えたとされている。
飛鳥時代の衣裳
飛鳥時代の天皇
御代 | 天皇御号 | 在位 | 皇宮 | 備考 |
---|---|---|---|---|
33 | 推古天皇 | 593~628 | 豊浦宮・小墾田宮 | |
34 | 舒明天皇 | 629~641 | 飛鳥岡本宮 | |
35 | 皇極天皇 | 642~645 | 飛鳥板蓋宮 | |
36 | 孝徳天皇 | 645~654 | 難波宮 | |
37 | 斉明天皇 | 655~661 | 飛鳥板蓋宮 | |
38 | 天智天皇 | 668~672 | 近江大津宮 | |
39 | 弘文天皇 | 672~672 | 近江大津宮 | |
40 | 天武天皇 | 673~686 | 飛鳥浄御原宮 | |
41 | 持統天皇 | 690~697 | 飛鳥浄御原宮・藤原宮 | |
42 | 文武天皇 | 697~707 | 藤原京 |
乙巳の変
乙巳の変は645年6月12日に中大兄皇子と中臣鎌足が中心となり蘇我入鹿を暗殺し、蘇我本宗家を滅ぼした政変である。
推古天皇から一代おいて、日本で二人目の女帝・皇極天皇の時代のことである。
当時、政治の実権は天皇家の姻戚として栄華を誇った蘇我本宗家が握っていた。643年、大臣の蘇我入鹿は皇極天皇の有力な後継者であって古人大兄皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)のうち、古人大兄皇子を推し、山背大兄王を滅ぼした。この事件により皇族や諸豪族の蘇我氏に対する反発は決定的となった。
『日本書紀』によると、645年6月12日、三韓の調の儀式の日に暗殺を実行している。その記述は非常に詳細である。入鹿を斬る役目を担うことになった佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が恐怖のあまり食べ物を戻してしまったり、皇極天皇や入鹿の前で表文を読む蘇我倉山田麻呂が汗をかき、声が震えているなど、心理描写まで事細やかに描かれており、いささか物語的な印象を受ける内容となっている。怖じ気づいた実行部隊二人を見かねた中大兄皇子がその場に躍り出ると、子麻呂と網田もそれに続き、入鹿を斬りつけた。皇極天皇は何事かと中大兄皇子に問い、中大兄皇子が「入鹿は皇室を滅ぼし、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は殿中に退いた。その後入鹿は斬り殺され、その遺体は庭に投げ出され覆いをかけられたという。
入鹿が次期天皇として推していた古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰り、後に出家した。
一方、中大兄皇子は法興寺で戦備を固め、諸皇子や諸豪族もこれに従った。蘇我氏に味方する者もいたが、中大兄皇子は使者を派遣し説得させ、蘇我氏の軍勢は逃げ散ってしまった。
翌13日、入鹿の父・蝦夷は舘に火を放ち自殺する。こうして蘇我本宗家は滅びたのである。
その翌日の14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位し、中大兄皇子は皇太子となった。この譲位は、日本史上初のことであった。
孝徳天皇は宮を難波に遷し、諸改革を行った。この改革を大化の改新と呼んでいるが、その一部は後世の改変であることがわかっている。
やがて孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、653年、中大兄皇子は飛鳥へ戻ることを求めたが、孝徳天皇はこれを退けた。すると中大兄皇子は母の皇極、妹で孝徳天皇皇后の間人皇女、弟の大海人皇子(後の天武天皇)を連れて飛鳥へ戻った。臣下の大半も中大兄皇子にしたがったため、孝徳天皇は孤立し憤死した。
孝徳天皇の死を受け、皇極天皇が再び即位し(斉明天皇)、中大兄皇子は引き続き皇太子となった。
『日本書紀』には乙巳の変の前日譚として、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いが描かれている。中臣鎌足は後に天皇となる軽皇子(孝徳天皇)と親しかったが、鎌足が共にクーデターを企てる同志として選んだのは、若干二十歳の若者であった中大兄皇子であった。鎌足は、中大兄皇子が蹴鞠をしていて靴が脱げてしまったところを拾い、親しくなったとあり、出会いの描写も作為的といる。
政変後の皇極天皇の譲位に際しては、最初は中大兄皇子に継がせるつもりであったが、中大兄は鎌足に相談し、「古人大兄皇子は兄であり、軽皇子は叔父である。彼らより先に皇位につくことは長幼の礼に反する」として、古人大兄皇子を推薦した。しかし古人大兄皇子は出家してしまい(のちに殺される)、軽皇子も何度か辞退するものの、最終的には即位を受け入れたという流れである。
この皇位継承は史上初めての譲位であることから、乙巳の変には皇極天皇を退かせる意味合いもあったという説もある。また、孝徳天皇が首謀者であったという説もある。
蘇我氏を滅亡させた首謀者の一人である中大兄皇子はなぜすぐに即位しなかったのかという疑問も残る。
大阪平野の変遷
縄文時代前期は「縄文海進」という海水面が異常に高く、広く河内の野を海が覆い大阪市鶴見区でクジラの化石が見つかっています。
縄文時代中期になると淀川の流送土砂のほうが大和川からより多く、湾は北から埋まり潟となり、海口が閉鎖され河内湖となりました。
河内湖も次第に埋まってゆき、最も深い部分を残して平野が発達していきます。
4世紀~5世紀ごろ、河内湖は草香江と呼ばれていました。上町台地に築かれた難波宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていたため、ヤマト王権(仁徳天皇)は草香江の水害を解消するために砂州を開削し「難波の堀江」という排水路を築きました。
江戸時代の大和川付け替えを経てその池沼も陸となり、現在は門真市岸和田の弁天池に僅かに名残を留めるのみとなっています。
現在の海水面が5~7m上がると河内湖の辺りが水面下になります。7m上がった状態がこちら
※こちらの地図は参考サイトを元に作成したため、必ずしも正しいわけではありませんのでご了承ください。
※現在の大阪の堀江は、「難波の堀江」の伝説に由来しますが、場所が一致せず直接関係はありません。