養老の衣服令による四位の命婦、即ち女官の礼服で、髪は金銀珠玉の飾りをつけた宝髻として化粧も 白粉 、 紅 の他、 花子 といって眉間や口元に紅あるいは緑の点をつけ、衣は四位相当の 深緋の大袖に同色の内衣を襲ねる。裙は 蘇芳、浅紫、深緑、浅緑のたて緂に、纐纈絞りの文様をおく。裙の下には浅縹の褶[したも]のをつけ、紕帯のをしめて錦の襪に舃[鼻高沓]をはく。衣服令に規定はないがさらに肩に領巾[比礼]をかけている。
養老の律令が発布され、服制の大網が確立する
天武天皇によって意図された改革は持統、文武と受け継がれて、中央集権的な強力な国家建設へと進められた。これは又中国の唐の文化、制度の受け入れの熱意ともなり、文武天皇の大宝元年(701)には律令の発布を見たのであった。新しい規則は大幅に唐の制度を受け入れたものであり、この時以後、官名、位号を以て称されるように定められた。
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かくて翌大宝二年正月の朝賀には親王及び大納言以上がこの制度により始めて礼服を着け、諸王、諸臣以下が朝服を着けたことが「続日本紀 」に記されている。文武天皇は若くして崩ぜられ、母の元明天皇が位につかれ、その和銅三年(710)、新しく中国風に整備された平城京(奈良)に遷都され、いわゆる奈良時代がはじまる。ついで、文武天皇の姉にあたる元正天皇が位につかれ、今迄の大宝の律令を改変した新令が養老二年(718)に出された。これが今日に伝統を受けつぐもので、いわゆる養老の律令と称される。
この養老二年の翌三年には服装史上で大きな問題である右衽の令が天下のすべての人、即ち百姓にいたる迄命じられている。しかし実情はすぐにすべての人が右衽(みぎまえ)に着たと思われない。平安時代につくられた神像にも尚左衽のものが見られるなど、徹底するのには時間を要している。
又、この年に始めて婦女の衣服の様が制定されている。このことは従来、男女の服装に特別の変化はなかったということである。ただ、男女の差は男は褌をつけ、女は裳をつけるという差異があっただけで、既に推古、天武、持統の服制に示したように上衣の着け方に変化はなかった。
この時以後、男の朝服や一般の人の用いる制服に見る円領に対して女の垂領の制が定められ、女の裳が状来は上衣の下につけていたのを、唐風により上衣の上から裳をつけるように定められたものと考えられる。
しかし、この養老の衣服令もしばらくは施行されることなく、旧様の通りで、聖武天皇の天平二年(730)には「今から後、天下の婦女、旧の衣服を改めて新様を用いよ」と述べられ、更にその後、孝謙天皇の天平宝字元年(757)にいたっても「自令以後宜しく新令に依るべし」と令されている。なかなか新しい養老の律令が完全に用いられるのには年数を必要としている。
礼服、朝服、制服の別と官位による色の規定
服制は親王、諸王並びに諸臣の五位以上が、特別の臨時に行われる大祀や、天皇一世一代の大嘗会や元旦に用いられる「礼服」と、親王、諸王、諸臣の有位の人々の平常出仕に用いられる「朝服」と、無位の人々が参朝の際に使われる「制服」の三種で、以上の男子の制度に準じて、内親王、女王、内命婦に礼服、朝服の規定、宮人、五位以上の人の娘、無位の庶民の女に対しては男子と同じく、制服の制がある。
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ただ男子と特に異なる所は夫のある女子は、夫の位階に準じた待遇を受けることができるということである。女子それ自身に位を持つ人を内命婦と呼び、夫の位階に応じる待遇をうける人を「外命婦」という。又、五位以上の娘は、父の朝服の色を除く以下の色を用いることができる。この点女子は自ら得た地位の他に夫や父の官位による身分が与えられているこのような考えは現在にも生きているといえる。
男子には文官、武官の別があるが女子にはない。
この礼服は唐の厳儀 の制の模倣である為、唐より古い漢代、或いは更に周代の制にもさかのぼるもので、衣は男女とも垂領である。朝服、制服は男子は円領であるが、女子は垂領になっている。円領の制は北方胡族の制を受け入れたもので、南北朝時代の北朝風な姿で、隋代の影響を受けたものである。
衣の色は官位によって異なる。即ち親王、内親王一品より四品迄及び王、女王、諸臣、内命婦一位は深紫。王、女王二位より五位迄及び諸臣の、内命婦二、三位は浅紫。諸臣、内命婦四位は深緋同じく五位は浅緋、六位は深緑、七位は浅緑、八位は深縹、初位浅縹、無位は黄、家人、奴婢は橡、墨衣、女子の有位の宮人は深緑、以下は自由に用いることが許されるが無位の宮人は一般の庶民と同じ黄を用いる。
女子の礼服の時の宝髻という結髪は金銀珠玉の髪飾をつけることで、これは頭頂に高く髷を結い上げたもので、位によってその形も異なっている。女子の朝服の時には宝髻をつけないで義髻といわれるそえ髪だけをつけ、髪飾をつけない。
正倉院御物の鳥毛立女屏風。
日本産の山鳥の羽毛が貼られているので奈良時代の日本製といわれる。当時代の婦人の装を示すもの。
顔には白粉、紅をつけ、歯黒をつけ、眉には蛾眉という、もと太く先の細い形式や橋のように三日月形にかくなど色々の描き方があり、又眉間や唇の外側に紅や藍の点をつけたりした。これを花子、或いは、花鈿と云った。唐の風習を模したものである。
女子の礼服の衣は大袖で身との袖付は細く、袖先へ曲線になっている。後には長袂とも呼ばれている。この大袖の下に筒袖の内衣をつけていると思われる。紕帯といわれる縁取のある帯を前で締める。三位以上は蘇芳と深紫、四、五位は浅紫と深緑。裙をまとい褶を腰より下に、ともにスカートのようにつける。褶は女王以上は浅緑、内命婦以下は浅縹、裙は内命婦一位以上は蘇芳、深浅の紫、緑の緂に纐纈(しぼり)がされ、内命婦二、三位以下は蘇芳、浅紫、深浅の緑に纐纈がなされている。足には錦の襪をつけ、舄(はなだかのくつ)をはく、内親王、女王、内命婦一位は緑の、舄に金銀の飾りをつけ、内命婦の五位以上は鳥舄に銀の飾がつけられる。