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養老ようろう衣服令えぶくりょうによる命婦礼服みょうぶらいふく

Myōbu (the 4th grade court lady) in ceremonial court dress specified by the Yorō-nō ritsuryō (the code).

  • 養老の衣服令による命婦礼服1枚目
  • 養老の衣服令による命婦礼服2枚目

養老の衣服令による四位しい命婦みょうぶ、即ち女官の礼服らいふくで、髪は金銀珠玉の飾りをつけた宝髻ほうけいとして化粧白粉 おしろい べに の他、 花子 かし といって眉間や口元に紅あるいは緑の点をつけ、衣は四位相当の 深緋こきあけ大袖に同色の内衣ないいかさねる。蘇芳すほう浅紫うすきむらさき深緑こきみどり浅緑うすきみどりのたてだんに、纐纈絞りこうけちしぼの文様をおく。の下には浅縹うすきはなだひらみ[したも]のをつけ、紕帯そえおびのをしめて錦のしとうずせきのくつ[鼻高沓]をはく。衣服令に規定はないがさらに肩に領巾ひれ[比礼]をかけている。

イラストによる解説

イラスト1
  1. 宝髻ほうけい
  2. 釵子さいし
  3. 花鈿かでん(眉間および唇の両側に描かれた朱、藍等の化粧、花子ともいう)
  4. 大袖
  5. 内衣ないい小袖
  6. (うわも)
  7. 紕帯そえひも
  8. 領巾ひれ(比礼)

養老の律令が発布され、服制の大網が確立する

天武天皇によって意図された改革は持統、文武と受け継がれて、中央集権的な強力な国家建設へと進められた。これは又中国の文化、制度の受け入れの熱意ともなり、文武天皇の大宝元年(701)には律令の発布を見たのであった。新しい規則は大幅に唐の制度を受け入れたものであり、この時以後、官名、位号を以て称されるように定められた。

かくて翌大宝二年正月の朝賀ちょうがには親王及び大納言以上がこの制度により始めて礼服らいふくを着け、諸王、諸臣以下が朝服ちょうふくを着けたことが「続日本紀 しょくにほんぎ」に記されている。文武天皇は若くしてほうぜられ、母の元明天皇が位につかれ、その和銅三年(710)、新しく中国風に整備された平城京(奈良)に遷都され、いわゆる奈良時代がはじまる。ついで、文武天皇の姉にあたる元正天皇が位につかれ、今迄の大宝の律令を改変した新令が養老二年(718)に出された。これが今日に伝統を受けつぐもので、いわゆる養老の律令と称される。

この養老二年の翌三年には服装史上で大きな問題である右衽うじんの令が天下のすべての人、即ち百姓にいたる迄命じられている。しかし実情はすぐにすべての人が右衽(みぎまえ)に着たと思われない。平安時代につくられた神像にも尚左衽のものが見られるなど、徹底するのには時間を要している。

又、この年に始めて婦女の衣服のさまが制定されている。このことは従来、男女の服装に特別の変化はなかったということである。ただ、男女の差は男ははかまをつけ、女はをつけるという差異があっただけで、既に推古、天武、持統の服制に示したように上衣じょうえの着け方に変化はなかった。

この時以後、男の朝服や一般の人の用いる制服に見る円領あげくびに対して女の垂領たりくびの制が定められ、女のが状来は上衣の下につけていたのを、唐風により上衣の上からをつけるように定められたものと考えられる。

しかし、この養老の衣服令もしばらくは施行されることなく、旧様の通りで、聖武天皇の天平二年(730)には「今から後、天下の婦女、旧の衣服を改めて新様を用いよ」と述べられ、更にその後、孝謙天皇の天平宝字元年(757)にいたっても「自令じれい以後宜しく新令に依るべし」と令されている。なかなか新しい養老の律令が完全に用いられるのには年数を必要としている。

礼服、朝服、制服の別と官位による色の規定

服制は親王、諸王並びに諸臣の五位以上が、特別の臨時に行われる大祀たいしや、天皇一世一代の大嘗会だいじょうえや元旦に用いられる「礼服」と、親王、諸王、諸臣の有位ういの人々の平常出仕に用いられる「朝服」と、無位の人々が参朝の際に使われる「制服」の三種で、以上の男子の制度に準じて、内親王、女王、内命婦ないみょうぶに礼服、朝服の規定、宮人くうにん、五位以上の人の娘、無位の庶民の女に対しては男子と同じく、制服の制がある。

ただ男子と特に異なる所は夫のある女子は、夫の位階に準じた待遇を受けることができるということである。女子それ自身に位を持つ人を内命婦ないみょうふと呼び、夫の位階に応じる待遇をうける人を「外命婦がいみょうふ」という。又、五位以上の娘は、父の朝服の色を除く以下の色を用いることができる。この点女子は自ら得た地位の他に夫や父の官位による身分が与えられているこのような考えは現在にも生きているといえる。

男子には文官、武官の別があるが女子にはない。

この礼服は唐の厳儀げんぎ の制の模倣である為、唐より古い代、或いは更に代の制にもさかのぼるもので、衣は男女とも垂領たれくびである。朝服、制服は男子は円領あげくびであるが、女子は垂領になっている。円領の制は北方胡族の制を受け入れたもので、南北朝時代の北朝風な姿で、代の影響を受けたものである。

衣の色は官位によって異なる。即ち親王、内親王一品いっぽんより四品よんほん迄及び王、女王、諸臣、内命婦一位は深紫こきむらさき。王、女王二位より五位迄及び諸臣の、内命婦二、三位は浅紫うすきむらさき。諸臣、内命婦四位は深緋こきあけ同じく五位は浅緋うすきあけ、六位は深緑こきみどり、七位は浅緑うすきみどり、八位は深縹こきはなだ初位そい浅縹うすきはなだ、無位は黄、家人かじん奴婢ぬひつるばみ墨衣すみぞめ、女子の有位の宮人は深緑こきみどり、以下は自由に用いることが許されるが無位の宮人は一般の庶民と同じ黄を用いる。

女子の礼服の時の宝髻ほうけいという結髪は金銀珠玉の髪飾をつけることで、これは頭頂に高くまげを結い上げたもので、位によってその形も異なっている。女子の朝服の時には宝髻をつけないで義髻といわれるそえ髪だけをつけ、髪飾をつけない。

正倉院御物の鳥毛立女屏風
正倉院御物の鳥毛立女屏風。
日本産の山鳥の羽毛が貼られているので奈良時代の日本製といわれる。当時代の婦人の装を示すもの。

顔には白粉、紅をつけ、歯黒をつけ、眉には蛾眉がびという、もと太く先の細い形式や橋のように三日月形にかくなど色々の描き方があり、又眉間や唇の外側に紅や藍の点をつけたりした。これを花子かし、或いは、花鈿かでんと云った。唐の風習を模したものである。

女子の礼服の衣は大袖で身との袖付は細く、袖先へ曲線になっている。後には長袂ちょうべいとも呼ばれている。この大袖の下に筒袖の内衣をつけていると思われる。紕帯そえおびといわれる縁取ふちとりのある帯を前で締める。三位以上は蘇芳深紫、四、五位は浅紫深緑をまといひらみを腰より下に、ともにスカートのようにつける。は女王以上は浅緑、内命婦以下は浅縹は内命婦一位以上は蘇芳、深浅の紫、緑の緂に纐纈こうけち(しぼり)がされ、内命婦二、三位以下は蘇芳浅紫、深浅の緑に纐纈こうけちがなされている。足には錦のしとうづをつけ、せきのくつ(はなだかのくつ)をはく、内親王、女王、内命婦一位は緑の、舄に金銀の飾りをつけ、内命婦の五位以上は鳥舄に銀のかざりがつけられる。