婚儀は人生の最大の典礼であるのは今も昔も変わらない。平安時代の公家社会に於いてもその盛装に苦心されたが、それは公の儀式でなく私の儀式としての立場であった。
平安時代中期の結婚は皇室を除く一般公家に於いては嫁入りでなく婿取りで、男が女の家へ通う形式で婿が嫁の家に通い、三日を経た後、嫁方の両親と挨拶をかわすというのでその儀式は「露顕」といわれ、これが今日の結婚式に相当するものであった。
後期になるに従い嫁娶の形式となってくる。神前結婚式という形式は、平安時代にはない。これは明治以後、皇室の諸行事が神道を以って行われ、明治天皇の皇太子嘉仁新王(のちの大正天皇)が新たに制定された「皇室婚嫁令」により明治33年賢所の皇祖の神前に於いて挙式されたのにならい、明治35年、東京日比谷大神宮の神前に於いて一般人が式をあげたのが最初であった。
平安時代公家の婿の装束は直衣か衣冠、「江家次第」によると嫁の家へ行く時は布袴、家に帰れば衣冠。また、供饌には狩衣ともあり、「長秋記」には源有仁は、織物の「直衣」に綾の紫の指貫、濃き打衣を出衣とし、下に蘇芳の衣三領、濃きの単、濃きの紅下袴、野剣、笏、扇を持っていた。このように公の正装である束帯を着されることはなかった。
従って姫君の装束も、晴れの装いであるいわゆる十二単ではなく、小袿姿であった。
「玉蘂」(九条道家日記)によると、蘇芳色小袿、白綾袿、八領、濃長袴、扇とあり、また「桃花蘂葉胡曹抄」には、姫君の装束の例が四つ挙げられている。ここには平安後期の嫁娶という表現がされている。
二条天皇の永暦2年(1161)正月29日、月輪殿中納言中将嫁娶における姫君の装束として、白御衣八、濃色御単、濃御打衣、薄蘇芳二重織物表着(亀甲の文)、濃蘇芳二重織物小袿(同文)、濃張袴。
鳥羽天皇の元永元年(1118)10月22日、内大臣嫁娶、民部卿長安女で年齢29歳という方の装束は白衣八領、濃単衣、濃袴、萄葡染二重織物小袿。
其の他二条天皇の平治元年(1159)7月2日、六条摂政(時に関白)が右衛門督信頼の妹を迎えた時の姫君の服装は松重二倍織物小袿、濃蘇芳二倍織物表着、濃引倍木、薄蘇芳単重、濃張袴、御扇。
とある他、後鳥羽天皇の元暦2年(1185)2月2日の中納言中将の嫁娶後第四日の装束としては皆紅の御衣六(小葵文)、紅の御単、白二倍織物御表着、鸚鵡丸文松重小袿、紅御張袴とあって、色直しとも思われ、白の御衣が紅となり御袴も濃きより紅となり逆に表着が白二倍織物とかわっている。
これ等の例により婚儀の装束は小袿或いは表着には、蘇芳色、萄葡染、松重色等が用いられ、袿(御衣)に白色のものが八枚重ねられ、単は濃きで袴も濃きが例のように思われる。
茲にその例により
小袿は蘇芳色二重(倍)織物 一領
袿 白八領を重ねる
単 濃き
長袴 濃き
下に濃き小袖、濃き袴をつけ、下げ髪、壊に帖紙、衵扇を手にする姿とした。
公家姫君婚儀の装い
A court daughter in wedding dress