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天武・持統朝女官朝服

Court lady in regular court dress of the Tenmu, Jitō era (673-697)

  • 天武・持統朝女官朝服1枚目
  • 天武・持統朝女官朝服2枚目

これは天武天皇の13年から持統天皇初め頃の女官の服装で、 ほうには内衣かさねて左衽さじんにし、結紐、長紐を用い、内衣の下に着け、さらに下がつけられている。の下にはひだかざりが付けられているか、あるいは下が執られていると思われる。また髪には前髪がとられ、垂髪の末端が上へ結い上げられている。

イラストによる解説

イラスト1
  1. 前髪まえがみ
  2. げ髪の端が結い上げられている
  3. ほう(左衽に着いている)
  4. らん
  5. えり結紐むすびひも
  6. 長紐
  7. 内衣ないいの袖
  8. 内衣ひだ
  9. すそにつけられている又はしたも

高松塚古墳の発見で天武・持統朝の服装が判然と

飛鳥、奈良時代には女帝が多い。推古天皇も女帝であったが、一代おいて皇極天皇も女帝でまた一代おいて重祚されて斉明となられ、天智、弘文、天武をへて持統天皇も女帝であり、文武をへて元明、元正と女帝がつづく。女帝の正式の御服装は白色であると考えられる。その形状は推古朝以来、ほぼ同じものではなかったか。皇極(斉明)天皇も同じで壬申の乱までその姿が続いたものであろう。一般の官僚については冠位の増加に伴う冠の素材、形状が変更されてはいたが、この間約八十年弱、古墳時代の形式に近いものが用いられていたと思われる。

この間の文献はないが、法隆寺の塑像のなかに種々想定されるものがある。

中国では隋は推古天皇の二十五年(617)に滅び、唐の高宗の初唐の盛時であり、日本との国交も開けるとともに、朝鮮半島との交渉も繁く、却ってその戦乱に応じて出兵し、白村江の敗戦となった。

しかし反面、文化的な知識の交流はこれ等を通じて、より盛んになったものと思われる。

推古朝の服装は旧法隆寺蔵、御物の聖徳太子像にだけ依って考えられていたので、そのお姿が天武朝十一年の規定の漆紗冠と矛盾していることを承知して、この年代以降と云いながら全面的否定も出来ない状態であったが、奈良県の明日香、高松塚の古墳が発見され、その壁面の彩色された人物像が世に出るに及んで、今迄判らなかった天武、持統朝の服装が判然とする事となった。

この高松塚の壁面の年代については、今尚多少の上下限について異論があるようであるが、私は諸種の点から考えて天武天皇の十一年以後、持統天皇の七年迄と信じている。多くの方々もほぼ七世紀の終わりごろ、乃至八世紀の始め迄と云うことでは一致している。

服装の形状は朝鮮半島の影響を多分にうけているが、そのままではなく日本独自のものが創案されたものと云える。

結髪、衣服の形状、色、着装法について

天武天皇は兄君である天智天皇の皇子、弘文天皇との戦、即ち壬申の乱によって帝位につかれたものであり、強い改革のお考えが見られ、新しい法令が定められている。従ってこの時の服制が高松塚の壁画の姿に該当する。数人の男性と八人の比較的判然とする女性が見られ、さしは如意にょい蠅払ようふつ を手にしているので儀杖の列かと思われる。

昭和47年3月21日に発見された、奈良県明日香村の高松塚古墳の西壁面北側に描かれた女性の姿 出典:国営飛鳥歴史公園

髪は前髪がとられて、結びの緒が見える。又垂れ髪であるがその端がはね上げられて、その曲げられているところは数段の緒で結ばれている。このような髪の結い上げをするのはやや技術的な考慮が必要である。天武天皇十一年の頃に男女ともに髪を結い上げることが令され又、十三年には四十歳以上の女は自由とし、神事にたずさわる巫祝は垂髪のままとされ、翌々年の朱鳥元年(686)にはすべての女は垂髪もとの如しとされている。このような複雑な状態がこの結髪の型とも思われる。

持統天皇六年(692)には観成という僧がつくった鉛粉(お白粉しろい )をほめて絁、綿、布が下賜されている。この年代以前であれば中国伝来の鉛粉はつけていないであろうが、頬紅などはあった。上衣はそのに横裂のすそつきがつけられ、身にはおくみが首を廻ってつけられ、首下には結紐があり、腰は長紐で締められている。天武天皇十三年の規定ではこの姿は特別の会集日の様子で、平常は欄や結紐、長紐は着る人の自由と定められている。

上衣の下には袖幅の長く、身丈のやや長い下着が重ねられ、これにはのある欄がついている。下着の色は白と縹が描かれている。

男性ははかま をつけるが、女性はをつけている。赤、緑、白の縦緂や縹のものがありの下にこまかいがある。このにつけられた飾りであるのか、又別にのあるもう一枚のしたもをつけているのかは判然としない。

着装法はいわゆる左衽で右の身が左の身にかぶさる形式で、元正天皇の養老三年(719)のすべての人々に対する右衽の令以前といえる。

又、この年に婦女の衣服の様式を制定されているが、この図では男女とも褌との差を除けばその上衣は全く同じであるので、やはりこの年以前と考えられる。

上衣の色は緑、赤、黄、白で持統天皇四年(690)制定の黒紫、赤紫、深緑浅緑深縹浅縹ではない。勿論上位の色である黒紫、赤紫は墳墓の人として描かれていないのは当然であるが、白、黄は無位の人なのであろうか。並んでいる位置やの色目から、そうとも思われない。持統天皇七年(693)に天下の百姓をして黄色衣を服せしめると令されているので、やはりこれ以前であろう。

朱鳥元年には男性が脛をつけることが令されているがここにはない。

持統天皇四年に綺帯かむはたおびが上下通用と記されているが、図の男性の白は比較的下位の人としてそれ以前から用いられていたものと理解している。今迄判らなかった天武・持統朝が解明されたのは服装史研究の上で大きな喜びである。