平安時代中期に完成した公家女房の唐衣裳の晴れの装いも特別の儀式だけのものとなり、天皇の側近に伺候する以外は、唐衣を略し、また表着や裳さえ省くこととなり、後期には小袿、袴に衣、単を重ねた袿姿が「はだか衣」として用いられ更に次には衣を除く単、袴のままの姿であったり、更に控えの時などは袴を脱して小袖のままのこともあった。
鎌倉時代武家政権となってからは京都の公家風を採り入れながら、より簡略な形が求められるようになった。これは鎌倉時代初期の将軍夫人や執権夫人の幕府における通常の正装を想定したもので、白小袖に幅のせまい帯を締め、その上に公家風の単と袿を重ねた姿とした。
当時の遺物としては、鎌倉の鶴岡八幡宮に残る神宝の袿等が五領あり、国宝になっている。
品目は次の五点である。
現在は(二)(一)の順序に三領の袿が重ねられ他は別置してある由である。
これ等は後白河法皇の献納とかまた亀山上皇の寄進とか伝えられているが、平安後期のおもかげのある鎌倉初期のものと考えられている。今回これ等をすべて復原考証した。
- (一)表、白小葵地鳳凰文二重織物、中陪は黄平絹、裏、萠黄向蝶文綾(綾地綾)
- (二)表、紫地向鶴三盛文浮織、中陪は白平絹、裏、紫松葉襷鶴菱文綾(固地綾)
- (三)淡香地幸菱文綾(綾地綾)の単仕立
- (四)黄地窠霰文二重織、中陪は黄平絹、裏は黄繁菱文穀紗になっている。
(三)の単をのぞく他の品は中陪つきで、表、中陪、裏ともそれぞれ単仕立ひねりぐけで袖幅、裄、同寸のものを、背、脇、衽などを縫目で綴じつけて重ねて一領としたものである。この(一)を上とし(二)の同品二領を所蔵の通り重ねて重ね袿とし、(三)は当時の色彩を推定すれば紅の退色とも見られ単として用いた。寸法もすべて伝承の品々によった。袖付は振りがなく身につけられているのでその様式に従い、袖口には重なりがあるが裄の差による中陪は見えない。鶴岡八幡宮の単仕立三枚一組のものを四組重ねれば十二枚の単を重ねたことになり、単仕立三枚一組のものを三組と二枚合わせのもの一組と単を重ねれば十二枚の重ね単となる。このように十二単の言葉を現実に見る心地があり、十二単とは本来は晴れの装いである唐衣、裳姿を意味したものでなく、近世になって十二単が唐衣、裳姿を示すようになったとも考えられる。
ここでは(一)、(二)、(三)の上に(四)の小袿を加えたので十二の御衣と単となり、計十三枚になる。