胴丸をさらに簡略化したもので、元来形は小さく、合わせ目が背の中央にあり、背部を防衛していないものであった。
しかし後には、背部を掩う装具がつくられ、これを背板または臆病板という。草摺は通常七枚、壺袖という小形の袖がつく。遺物は南北朝以後のものが多く、以前のは見うけない。着装しているのは革包、縅(威)糸も疎らな素掛け、室町時代の遺品。かぶりものは侍烏帽子、籠手、臑当、脛巾をつけ、革足袋、足半をはき、革包の太刀を佩びている。初期のものには杏葉がないが、後期のものには杏葉がつけられている。またこの頃より膝のあたりを防護する佩楯が用いられるようにもなる。