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山吹②

山吹②1枚目

山吹ばなしの続き。
平安時代、山吹色はゴージャスな装束の中に登場しています。

『とはずがたり』(後深草院二条・鎌倉中期)
樺桜七つ、裏山吹の表着、青色唐衣、紅の打衣、生絹の袴にてあり。浮織物の紅梅の匂ひの参つ小袖、唐綾の二つ小袖なり。

『北山院御入内記』(一條経嗣・1407)
上らう。おほぎ町の故大納言ただすゑの御むすめ。
うへ。 あか色の梅の五絹。あをきひとへ。山吹のうはぎ。あか色のからぎぬ。ぢすりの裳。あか色のこゞし。くれなゐのうちぎぬ。おなじはりばかま。

しかし、この色を「黄朽葉」という名称にすると、尼が用いる地味な色、という認識になります。「朽葉」なんていうと小汚い落ち葉の印象ですが、実際には派手な色彩でした。そうやって尼もお洒落を楽しんでいたわけですね。

……で、派手なオレンジ色というと「禁色(きんじき)」(一般人使用禁止の色)である「黄丹(おうに)」=皇太子専用色とダブります。黄丹だけでなく、これと似た色の「深支子(ふかきくちなし)」色も禁色でした。しかし世の中には抜け道があるもの。

『法曹至要抄』(坂上明基・平安末期)
黄丹事。弾正式云。支子染深色可濫黄丹者。不聴服用。元慶五(881)年十月十四日宣旨云。支子染深色可濫黄丹者。不得服用[者イ]。而年来以茜紅交染。尤濫其色。自今以後。茜若紅交染支子者。不論浅深宜加禁制者。
案之。着件色之時。雖禁制重。近来之作法或称欸冬色着用之。或号黄朽葉色着用之。已下男女任意隨望。亦(而?)無禁制之。

深支子は黄丹に似ているから禁止されているのだが、これを「欸冬(やまぶき)色」だとか「黄朽葉色」だとか称して、好き勝手に着ているから、これも禁止である、と。色見本を示しての禁制ではないため、「これは欸冬色であって深支子じゃないからOK」などと言うヤカラがいたわけです。

『政事要略』(惟宗允亮・平安中期)
寛弘二(1005)年三月八日。大原野社有中宮(彰子)行啓。卿相侍臣多以供奉。爰蔵人兵部少丞藤原定佐。着欸冬色織物下襲。于時検非違使別当斉信卿仰佐以下官人云。件下襲可糺乎。搦身可申事由者。或云。被聴禁色之輩。不着何色之服哉。案之。下襲之色。載在令條。皆隨袍色。各可着用也。僣上服用。是着禁色也。依蒙綸●(糸+勃の旁)。誠雖聴被禁制之色。相乖時世。何輙着雑裁成之衣。偏好僣上。似異天下。就中至于織物之類。雖有用袴。未用下襲。今恣着用。可謂過差。夫過差者。法之所制。不可不弾。咎仰之旨。不違法意。職縦蔵人。身已六位也。立従破却。可無其憚。但邑上御代。供養雲林院御塔之日(応和三(963)年三月十九日)。藤原雅材為蔵人。以綾染欸冬花蘂。重着下襲。表黄裏青。欸冬花与蘂色歟。其時検非違使。只有見咎強不糺弾。事及天聴。無所被仰。

中宮彰子の大原野行啓に際し、六位蔵人(帝の秘書)の藤原定佐が、欸冬色の「下襲(したがさね)」(袍の下に着る裾長の内着)を着ていたのです。さっそく警察長官である検非違使別当・藤原斉信の目にとまり、斉信は部下に「あれは逮捕すべきか」と尋ねます。定佐は蔵人なので帝から禁色聴許を受けていたため、判断に迷ったわけですね。結果として「下襲を派手にするのは『過差』(僭越なぜいたく)である。たとえ蔵人であっても六位の身分なのだから、取り締まるべきである」ということになりました。ただ、応和三年に「裏山吹」の下襲を着た蔵人がお咎め無しであった例もある、と。
そうした禁令が出るほど、そして禁令を破る例が数多くあったほど、人々の山吹色に寄せる思いは強かった、ということでしょうかね~。

画像は、八重咲きのヤマブキ。何度も申しましたように、これには実がなりません。それにしてもゴージャス。越後屋もお代官様も大好きな、山吹色に満ちあふれています。五つ衣の襲色目は『満佐須計装束抄』から「山吹の匂ひ」。

(有職故実研究家 八條忠基さん Facebook投稿より)