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雲立涌文様について

雲立涌文様について1枚目

現代の男子皇族指貫の文「雲立涌」

雲立涌くもたてわくは蒸気が立ち昇り、雲がわき起こる様子を象っためでたい文様で、関白の袍(束帯の上着)や親王の袴などに用いられた、やはり高貴な文様です。現代でもよく見受けられるもので、今日の男子皇族の指貫(衣冠に用いる太いズボン)はこの文様が用いられています。雲立涌にも千差万別のバリエーションがあります。
雲立涌文様についてご紹介して参りましょう。

(有職故実研究家 八條忠基さん Facebook投稿より)

雲立涌は高貴な文様

『後照念院殿装束抄』の絵様「立沸雲」

高齢者の長寿を祝う「八十の賀」の御装束として、雲立涌文様の袍を用いた衣冠装束をいたしました。これは高位者の御装束で、摂家は、関白になると「雲立涌」文を用い、子に関白職を譲って太閤になると、親王と同じ「雲鶴」文を用いました。

『装束雑事抄』(高倉永行・1399年)
摂関家御袍文 地唐草窠に竜胆<中少将より大臣まで此文なり>。
雲立涌<関白当職之時着給也>。
雲ニ鶴<太閤之時着給也。是は大略のしめ也>

『後照念院殿装束抄』(鷹司冬平・鎌倉後期)
知足院殿(藤原忠実)仰云。立沸雲袍。宇治殿(藤原頼長)召ケルトテ。一ノ人着之。我譲関白之後初テ雲ヲ着也。申テ云。件ノ立沸雲ハ。宇治殿初而召候歟。仰云。其ハイカゞ有ケン。先例ナドヲ以令着御歟。
立沸雲絵様。摂籙ノ時冬着之。
或抄云。執柄袍文沸雲ハ。
摂四海如雲。故用之。
建長六年二月十八日経光卿記云。九條前内府被仰云。執柄被着立沸雲袍事。京極大殿(師実)仰云。壮年之執柄不可着之。五旬後可用云云。而近代昇氏長者人。不謂年之老若皆令着給。又齢及五旬之□。近代以稀之故歟。

これによれば、「平安末期の藤原頼長が雲立涌を着たが、それはたぶん先例に依ったもので、頼長が雲立涌第1号というのはどうかな」ということになっております。雲立涌。「くもたてわく」「くもたちわき」「立沸雲」などと呼ばれるこの文様は、関白が用いる高貴な文様として扱われたわけです。
親王の指貫にも用いられました。

『享徳二年晴之御鞠記』(一條兼良)
享徳二の年(1453年)春三月廿七日。内裏のはれの御まりの日記。
人々装束并韈色事。
主上<後花園院>
御直衣。半色御指貫<窠霰文>。無文燻革御韈。有伏組。
<伏見殿> 式部卿宮貞常。
直衣。薄色指貫<雲立涌文>。有文紫革。

さて、では「雲立涌」がどうして高貴文として尊重されたのでしょうか。『後照念院殿装束抄』には、「或抄云。執柄袍文沸雲ハ。摂四海如雲。故用之。」とあります。「摂関の権力はは雲の如く四海を覆う」ということですね。ここから江戸時代の文献には…

『装束文餝推談』(壺井義知・江戸中期)
雲鶴及雲立涌の事、雲は山川の気なりといひ、又陰陽集りて雲となり。舒ればすなはち弥綸して四海におほひ、巻は則消液して無形に入るといへり。(中略)又立涌雲の文は、宇治の摂政にはじまるよし、下にしるせり。それ執柄の四海を摂し給ふこと、雲の如しといへり。

と、もっともらしい説が展開されていますが、特に根拠のあるものではなく、画像からイメージを膨らました説のように思えます。調べてみましても「雲立涌」の根拠となるものは見いだせません。
そもそも。
この文様は本当に「雲」なのでしょうか。

確かに現代において男子皇族の指貫(奴袴)に用いられる「雲立涌」文様は、湾曲する枠形の中に霊芝雲が涌き起こっている図柄です。これは間違いなく「雲」です。しかし、『後照念院殿装束抄』に示される「立沸雲絵様」は枠形と雲がつながっており、しかも「雲」っぽくありませんね。

『源氏物語絵巻』の屏風
『源氏物語絵巻』の屏風
『伴大納言絵巻』における女子の袿
『伴大納言絵巻』における女子の袿

雲立涌の最も古い図柄資料は、平安末期に描かれた『伴大納言絵巻』における女子の袿、『源氏物語絵巻』の屏風の裏張ですが、ともに『後照念院殿装束抄』の絵様と同様の描かれ方をしています。雲っぽくない。そこで、この図柄が「雲」であるという前提をひとまず外してみましょう。

古様の「雲立涌」文様は雲に見えない?

『源氏物語絵巻』の屏風横倒し
中国西域の連続唐草文
古代オリエント遺跡の葡萄唐草連続文
古代ギリシアのパルメット唐草連続文

『源氏物語絵巻』や『後照念院殿装束抄』に描かれる、古様の「雲立涌」文様は「雲に見えない」という問題。古様のものは……

  • 立涌枠の内部が雲に見えない
  • 立涌枠と内部がつながっている

という特徴を持ちます。そこでこの文様のモチーフが「雲ではない」という仮説を立てて見たところ、勢い余って『源氏物語絵巻』の屏風を横倒ししてしまいました。すると……なんということでしょう!! あらたな図柄が浮かんで参りました。

これは、紛う方なき唐草文様ではありませんか!

しかも、古代ギリシア、オリエント、ローマの遺跡などで見られるパルメット、葡萄唐草などの連続文。シルクロードを伝わり、中国西域の石窟寺院などにも用いられた忍冬唐草文などなど……。

それらは横につながる文様が多いのですが、これを縦に配置して並べれば、おお、立涌文様になります。古様の雲立涌が「枠と内部がつながっている」のも、蔓と葉あるいは葡萄と考えれば問題ありません。つまり内部は雲ではなく、パルメット(ナツメヤシ)や葡萄などであった!!世界史の中の日本史!

平安末期の藤原頼長が、この伝統文様を「立沸雲」と名付け、適当な理由をつけて摂関の袍と位置づけた。それを知っているからこそ、「件ノ立沸雲ハ。宇治殿初而召候歟?」と聞かれた父・忠実が
「其ハイカゞ有ケン。先例ナドヲ以令着御歟?」
などとぼやかして返事をしている、そう考えられませんでしょうか。

以上の事実を明確に裏付ける根拠文献はまだ見つけていないのですが、文様の図柄から見れば十分あり得る話だと思います。これをもう少し補強すれば学部の卒論くらい書けるなぁ。書いてみませんか、学部生諸君!

唐草文様を縦にして並べてみると…

古様の轡唐草(神護寺『伝・平重盛像』より)
河北省響堂山石窟(6世紀)の唐草文様
現在の轡唐草

古様のいわゆる「雲立涌」を横倒しすると、シルクロードを伝わってきた唐草連続文になる、というお話しを致しました。…というよりも、「雲立涌は唐草連続文を縦にして並べたもの」ということです。

面白半分に、河北省響堂山石窟(6世紀)の唐草文様を縦にして並べてみましたら、あっと気がつきました。これは神護寺の『伝・平重盛像』に見られる、古様の「轡唐草(くつわからくさ)」によく似ているではないか、ということです。

『装束雑事抄』(高倉永行・1399年)
轡唐草。閑院両家は皆着す。但三條家は輪無之と云々。此外着用家々、御子左・四條・平松・楊梅・山科・菅家・当家・両局輩着用之。無輪、源家・平家・花山院・三條・日野・勧修寺。

『禁中並公家中諸法度』(1615年)
袍之紋、轡唐草・輪無、家々以旧例着用之、任槐以後異文也。

任槐(大臣になる)以前の通用文様が「輪無唐草(わなしからくさ)」あるいは「轡唐草(くつわからくさ)」だったのです。こうしたことから、明治27年に定められた『神官神職服制』でも、そのいずれかを用いると言うことになっていました。明治33年には任槐以後の異文の使用も許されましたが、大正元年には異文・轡唐草は廃止され、輪無唐草だけになってしまいました。

その轡唐草。古様のタイプは何となく西域を感じさせるデザインではありませんか?