奈良時代の法衣が正倉院御物として一領のこり袈裟付羅衣と称されている。たれくび大袖で、後身に縁のある方形の別布がつけられている。菱格子文の羅で薄茶色になっているこの形の遺物は他に例を見ないが、鑑真和上の木像にその形があり、また中国の敦皇の壁画や塑像にも見られる。この方形のものをいつの年代から袈裟と称したのか詳にせないが、これは覆肩衣と称すべきものかと思える。袈裟付羅衣は覆肩衣付羅衣というのがよいのではなかろうか。また鑑真和上木像着装の袈裟と同種のものと思われるものが、やはり正倉院に残されている。国家珍宝帳に載せる「御袈裟九領」のうち、「七条織成樹皮色袈裟」を復原して着装させた。
この織成は、文様に用いる絵緯を織りはめにした綴錦の織法に、さらに全幅に貫通する地緯が一越しおきに打ち込まれている。経ては茶、文様をあらわす絵緯は紺、浅緑、黄、赤、浅紅などの彩糸で、地緯は浅縹である。色境いの部分は、相隣る絵緯が互にからみあっている為、その部分に小結節が生じ、特殊な趣きを呈している。縁、條、堤とももとの姿と思われる皀綾とし、裏は唐花文の唐綾とした。長さ245.5糎、幅139糎、修多羅によって着装したと思われる。この袈裟は種々の交錯した色相を以っているので、糞掃衣といわれる意を表現している。
また修多羅は、延暦寺に残る天台六祖荊溪和尚の、依用と伝えられる袈裟とともに残る修多羅の形状によった。
衣はここでは、紗を以って羅にかえたが、色相は現在は薄茶色であるが、これは褪色した姿で、あるいは本来緋色ではなかったかと思われる。壊色の筒袖の内衣をかさね、裳をつけているがこの当時は横被は用いられていない。
またこの姿は特別の儀式のものと考えられるので、前述の鑑真和上になぞらえた。鑑真和上は中国の唐代の高僧で5回の失敗とその為に盲目となられたに拘らず、ついに天平勝宝5年12月(753)日本に渡来された日本律宗の開祖であり、聖武天皇に対する授戒も和上の手によって行われた。