
十二単は、平安時代中期、十世紀後半に成立したと考えられる公家女子の正装で、正しくは「唐衣裳姿」と言います。
【飛鳥時代】天武・持統朝女官朝服
―隋の服制をもとに天武天皇が定めた服制、高松塚古墳に見る装束―

天武天皇13年(684)から持統天皇(在位:690~697)初め頃の女官の朝服です。朝服というのは朝廷に出仕する時に着用する装束のことです。
袍には内衣を襲ねて左衽(襟合わせが左前)にし、結紐、長紐を用います。
裳は袍、内衣の下に着け、さらに下裙がつけられています。
裳の下には襞飾がつけられているか、あるいは下裙に襞がとられていると思われます。
また髪には前髪がとられ、垂髪の末端が上へ結い上げられています。
高松塚古墳の壁画が発見され、彩色された人物像が世に出たことによって、今までわからなかった天武・持統朝の服装が判然としました。
服装の形状は朝鮮半島の影響を受けている反面、日本独自のものが創案されたといえます。
【奈良時代】養老の衣服令による命婦礼服
―大宝律令の完成、唐の文化を取り入れ日本の服制の大綱が確立―

写真は養老の衣服令による四位の命婦、すなわち女官の礼服の姿です。礼服というのは即位式と朝賀(平安時代初期まで行われた正月元日の儀式)にのみ着用する最も格式高い装束です。
髪は結い上げて金銀珠玉の飾りをつけた宝髻とし、化粧は白粉、紅のほか、花子(花鈿ともいう)眉間や口元に紅あるいは緑の点をつけます。
衣は、四位相当の深緋の大袖に、同色の内衣を襲ねます。衣の色は衣服令によって位に応じて定められており、一位が深紫、二・三位が浅紫、四位が深緋、五位が浅緋です(男性も同じ)。
裙は蘇芳、浅紫、深緑、浅緑のたて緂に、纐纈絞りの文様をおきます。
裙の下には浅縹の褶(ひらみ、したも)をつけ、紕帯を締めて錦の襪に舃(鼻高沓)をはきます。
衣服令に規定はありませんが、肩に領巾(比礼)をかけた姿としています。
この頃の装束として注目すべきなのは、襟合わせが右衽(右前)になったことです。唐の文化に倣い、それまでの左衽(左前)から右衽(右前)に改められました。以後、日本の和装は現在に至るまで右衽(右前)となっています。
【平安時代初期】平安時代初期女官朝服
―唐風を継承した平安時代初期―

平安時代といえば十二単を思い浮かべる方が多いですが、初期の頃はまだ唐風を継承した姿です。写真は平安時代初期の女神像や吉祥天女像などによった貴婦人の姿です。
髪も結い上げ一髻となっていますが、後ろと顔の両側へ長く垂れて引き上げられています。
眉間と頬の花鈿(花子)は唐風そのままで、袖なしの錦の背子は養老の衣服令にはなかったものです。
中央に垂れた二条の飾り紐は、上衣の結び紐の余りを装飾化したものと考えられます。緂
の裙、縹の褶を下半身につけ、紕帯をして領巾(比礼)をかけ、鼻高の舃をはいています。
【平安時代】公家女房、裙帯比礼の物具装束
―遣唐使廃止(894年)を機とした日本文化のめばえ 国風装束への変化―

平安時代の女房装束の晴れ姿といえば、いわゆる十二単で、これが最高の服装のように思う方が多いでしょうが、さらに厳儀の時には、裙帯、領巾(比礼)をつけました。また、髪型については、髪を垂らした後、結い上げて宝冠をつけるという、奈良時代の礼服の形式を残したものが用いられました。これを物具装束といいます。
唐衣、裳、表着、打衣、衣(袿ともいう)、単、張袴(多くは紅の袴)、襪の通常の晴れの装い(いわゆる十二単)に、裙帯をつけ、領巾(比礼)をかけます。
裙帯は養老の衣服令の紕帯が変化したものとも考えられ、裳の引腰も裙帯の転じたものとの説もあります。
『年中行事絵巻』の第5巻5段に見える妓女の奏舞は、この姿と思われますが、絵巻では紅の長袴にかえて短袴となり、舃(鼻高沓)をはいているのは、より奈良時代の命婦の礼服に近いと思われます。
【平安時代中期】公家女房晴れの装い
―唐様を変化させ日本独自の十二単の完成―

公家女房晴れの装いであるこの姿は、成年婦人の朝服で、宮中における正装です。「唐衣裳」姿や「女房装束」ともいわれ、いわゆる「十二単」と呼ばれるのがこの装束になります。この形が成立したのは平安中期の10世紀後半頃と考えられています。
髪はそれまでの結髪と異なり垂髪で、眉は作り眉です。
紅の袴(若年で未婚の場合は濃色=濃き紅の意味で紫に近くなる)をつけ、単、袿(衣)、打衣、表着、裳、唐衣を着けます。
平安時代中期には、内に着込める重ね袿の風が極めて華美となって20枚以上着用することなどがあり、平安時代末期から鎌倉時代には重ね袿を5領までとする「五衣の制」が定められました。この装束が俗に「十二単」といわれるようになったのは後世のことですが、
このように「十二単」の「十二」は衣の枚数ではなく、「たくさん」や「多い」といった意味合いで使われていました。
五衣は季節に応じたかさね色目を装うことが美しさの条件とされ、平安時代の女性たちは美意識を五衣で表現しました。
【平安時代院政期】院政時代の公家女房晴れの装い
―最も絢爛豪華な装飾―

10世紀後半頃に成立した十二単(唐衣裳姿)の形式を受け継いだ平安時代後期、院政期といわれる白河、鳥羽、後白河法皇の時代、11世紀末から12世紀末に至る100年の間は服装の面でも最も絢爛豪華な時代でした。
公家女房装束が異様なまでに飾られ、身に着けて居並ぶばかりでなく、殿内の装飾として母屋と廂の境に上部には翠簾を吊るし、下部には打出の装束として几帳の骨(木部)様式のものにかけて並べ、また牛車の後部の翠簾下の飾りとする出衣とし、この装束が用いられています。
院政期の十二単は唐衣に紐をつけて、より装飾的になっています。
【江戸時代前期】江戸時代前期の正装の公家女房
―応仁の大乱以来の有職の乱れ 儀式服と化した十二単、伝承の混乱―

室町時代の応仁の乱(1467~1478)の後、しきたりが不明となり十二単に特別な形が生まれました。
写真は桃山時代前後から天保14年(1843)、平安朝の裳再興までの姿で、裳には唐衣と共裂の刺繍入りの掛帯が用いられ、小腰はありません。この裳の下に纐纈の裳といわれる二幅の頒布のつく合計四幅の裳がつけられます。この纐纈の裳は享保7年(1722)の御再興女房装束の際に廃止されています。
唐衣の下は表着で、平安時代とは異なり打衣は袿(五衣)の下に着ます。打衣の下は単を着ます。
髪型は、下げ髪に玉かもじをつけて平額、釵子、櫛を飾ります。これは桃山、江戸時代前期の姿で、江戸時代後期になると髪型は鬢の張り出した「大すべらかし」となります。
写真の姿は後水尾天皇中宮和子(江戸幕府2代将軍徳川秀忠の娘)の遺品を復原したものです。
【江戸時代後期】江戸時代後期の正装の公家女房
―庶民に流行した結髪が公家装束に取り入れられる―

江戸時代の天明年間(1781~1789)頃に京の町衆に流行した鬢を大きく張り出すいわゆる燈籠鬢が宮中の様式にも取り入れられて、「大すべらかし」が作られるに至りました。
大すべらかしには玉かもじをつけて平額、釵子、櫛を飾ります。
江戸時代前期のものと同様、裳には唐衣と共裂の刺繍入り掛帯が用いられ、小腰はありません。唐衣の下は表着で、打衣は袿(五衣)の下に着ます。打衣の下には単を着ます。
写真は天明頃から天保14年(1843)平安朝の裳再興までの姿です。
【近代】皇族女性盛装
―現代に受け継がれる平安王朝の装束・十二単―

即位礼の時、皇后陛下が御帳台に昇られる時の形式の御盛装です。皇后の前に列立される皇族妃、後方に侍立する女官の服装も同様ですが、その場合は敬称の「お」「おん」はつけません。
白小袖に長袴をつけ、その上に単、五衣、打衣、表着を重ね、唐衣と裳をつける形式は平安時代のものに近いです。
髪型は江戸時代後期以来の形式である大すべらかしで、平額・釵子・櫛を飾ります。